自転車保険はぼったくりなのか?

https://www.mlit.go.jp/road/bicycleuse/promotion/img/01.gif
国土交通省, "自転車損害賠償責任保険等への加入促進について", PDL1.0

昨今、多くの都道府県で自転車損害賠償責任保険等の加入が義務化されており、その理由として挙げられているのは、自転車事故の加害者が高額な損害賠償を命じられる事例があることである。また、自転車保険の保険料は、おおむね年間数千円程度である。

ここで、自転車による交通事故で高額な損害賠償を命じられるという事例がどの程度あるのかという疑問が生じる。上でリンクした日本損害保険協会のページでも、挙げられている事例は平成25年、令和2年、平成20年、平成15年、平成19年と、かなり昔のものが多く、相当まれなことではないかという印象を受ける。そして、そのようなリスクへの備えとして、年間数千円程度の保険料は妥当なのだろうか*1。

残念ながら、民事裁判の判決はすべてがインターネット上に公開されているわけではなく、また、裁判によらず示談などにより賠償が行われることも多いと推測されるため、高額賠償の件数を調べるのは難しいと考えられる。

そこで、まず、警察庁の統計から、自転車と自転車または歩行者を当事者とする死亡事故*2*3の件数について調べると、次の表のようになり、おおよそ年間10件未満であることがわかる。参考に、令和7年の交通死亡事故件数は2,495件であり、そのうち自転車を当事者とする死亡事故件数は303件である。

年 歩行者 自転車相互
平成27 8 1
平成28 3 2
平成29 3 1
平成30 2 3
令和元 5 0
令和2 2 2
令和3 6 5
令和4 4 0
令和5 3 1
令和6 3 0
令和7 3 1

また、自転車と自転車または歩行者を当事者とする重傷*4事故*5の件数は、次の表のとおりで、おおむね年間1000件未満である。なお、令和7年の重傷事故件数は26,145件であり、そのうち自転車を当事者とする重傷事故件数は6,793件である。

年 歩行者 自転車相互
平成27 300 356
平成28 258 350
平成29 324 396
平成30 372 442
令和元 321 412
令和2 322 432
令和3 309 432
令和4 327 423
令和5 362 476
令和6 348 463
令和7 353 487

以上の統計から、自転車による死亡事故は年間10件未満程度、重傷事故は年間1000件未満程度という数字が得られる。死亡事故で平均1億円、重傷事故で平均100万円の賠償が行われたと仮定すると、年間の賠償額の合計は、1億×10+100万×1000=20億円未満と概算できる*6。国内の自転車保有台数は約6870万台であり、計算の簡便のためこれを5000万台とすると、賠償額を自転車保有者全員で分かち合った場合、20億÷5000万=40円未満となる。これは、自転車保険の保険料である数千円と明らかに乖離している*7。

もっとも、自転車保険は、賠償責任だけではなく、死亡・後遺障害や通入院なども補償していたり、示談交渉やロードサービスなどの付帯サービスがあったりすることが多く、また、保険料には各種経費や保険会社の利益なども含まれるため、その保険料と上記の概算額40円を単純に比較できない点には注意が必要である。上述の通り、自転車が加害者となる事故は少ないとしても、自転車が当事者となる事故は意外と多いため、その備えとしては自転車保険は妥当かもしれない*8。しかし、加入義務化が進められている損害賠償責任保険としては、保険料の適正さに疑問符が残るのも事実である*9。

自転車損害賠償責任保険の加入を徹底させ、被害者救済を図りたいのなら、年間の賠償額の期待値が40円程度で、自転車の耐用年数は数年程度*10であることを考えると、自転車販売時に防犯登録と同時に数年分の保険料数百円を一括して徴収し*11、その自転車について廃棄まで賠償責任を補償するという制度の方が、現行の方式よりもよいかもしれない。また、賠償責任保険と傷害保険や付帯サービスを抱き合わせて自転車保険として販売することをやめさせ、義務付けられている保険にだけ加入できるようにすることが望ましいだろう。

*1:ただし、自転車保険の多くは、賠償責任の他に、死亡・後遺障害や入院・通院なども補償しており、示談交渉やロードサービスなどの付帯サービスもある。

*2:自転車と自動車や二輪車の死亡事故は、自転車の側が死亡することがほとんどであると推測されるため、また、自転車単独の死亡事故は、賠償責任が発生しないと考えられるため、考慮しない。

*3:これらの死亡事故の全てで自転車の運転者に過失があり、損害賠償責任を負ったとは限らない。なお、自転車は自賠法が適用されないので、人身事故の場合でも無過失責任ではない。

*4:「交通事故によって負傷し、1箇月(30日)以上の治療を要する場合」

*5:死亡事故と同様、自動車や二輪車との事故や自転車単独の事故は考慮しない。

*6:ちなみに、2024年の自賠責保険の保険金支払額は5,782億円であり、任意保険の対人賠償責任保険の保険金支払額は3,050億円、対物賠償責任保険のそれは7,692億円で、それらを合計すると1兆6,524億円となる。

*7:なお、他の保険の場合は、2025年度における元受正味保険料に対する元受正味保険金の割合は、自動車保険で58.2%、傷害保険で40.6%、自賠責保険で79.8%である(日本損害保険協会の統計から計算)。

*8:しかし、これもかなり怪しい。1億円までの損害賠償責任補償に加え、100万円までの死亡・後遺障害補償がある自転車保険の保険料は月額140円すなわち年額1680円である。ところが、令和7年の自転車乗用中の交通事故死者数は306人であり、後遺障害が残った人が死者の10倍いると仮定すると、合わせて4000人を下回る。これらの人々の全員に100万円の保険金が満額支払われた場合、その合計は100万×4000=40億円となり、自転車1台当たり40億÷5000万=80円となる。これに40円を足して120円にしても、1680円には到底及ばない。なお、この保険は、自転車保険の中では保険料が最安のものの一つである。

*9:もっとも、多くの人は数億円数千万円という財産があるわけではないので、そのような額の賠償をする可能性が少しでもあるならば、保険料が賠償額の期待値とかけ離れていたとしても、保険に加入するのは合理的でありうる。それでも、保険会社間で競争が行われているならば、他の保険会社より少しでも保険料を安くすれば加入者を奪えるので、最終的には保険料は期待値に近づいていくはずである。

*10:法定耐用年数は2年。

*11:あるいは、防犯登録料や自転車本体価格に含める。

丁字路における優先関係

3WayJunction 01
秋月 智絵沙(Chiether), Public domain, via Wikimedia Commons

丁字路において、突き当たりがない側の道*1が優先となるという誤解をしている人は多いようであり、自分もそう思っていた。しかし、道交法によれば、それは間違いである。

なお、以下では、次の条件を満たす丁字路を想定する。

  • 交わるどちらの道路も優先道路(標識*2により優先道路と指定されている道路や、交差点の中まで中央線などが通っている道路)ではない。
  • 交わる道路の道幅が同じくらいである。
  • 一時停止標識や信号機がない。
  • 路面電車が走っていない。

道交法第36条第1項は、交わるどちらの道路も優先道路でなく、道幅が同じくらいで、一時停止標識や信号機がない交差点では、車両は、交差道路を左方から進行する車両の進行妨害をしてはならないことを規定している(左方優先)。

左方優先のルールが丁字路でどのように適用されるのかを、下の図を例に見ていく。③の車両から見て、①の車両は左方から進行しているため、③は①の進行妨害をしてはいけないことになる。この場合は、冒頭に述べた突き当たりがない道路を通行する側が優先という勘違いと結果的には同じになる。

ところが、②から見て③は左方から進行しているため、②は③の進行妨害をしてはいけない。この場合、突き当たりがある道路を通行する側が優先となっており、冒頭の勘違いと相反することになる。

① →  
← ②
↑
③

以上、丁字路における優先関係について説明してきたが、いくつか注意事項がある。

まず、丁字路で突き当たりがある道路を通行する車両(上の図の③)は、直進することができず右左折するしかないので、左方優先であろうとなかろうと、道交法第34条第1項・第2項の規定により徐行しなければならない。また、交差点内に入ろうとしたり、そこを通行したりするときは、いずれにせよ、道交法第36条第4項の規定により、交差道路を通行する車両などに特に注意し、できるだけ安全な速度と方法で進行しなければならない。

さらに、交通事故の損害賠償額の算定においては、様々な要素が考慮されるため、左方の車両の方が必ずしも過失が小さいと判断されるとは限らない。

現実問題として、依然として冒頭で述べたような誤解をしている人が多いのが実情なので、丁字路で突き当たりがある道路を通行する場合に、左方優先を妄信して交差点に強引に進入したら、事故の危険が大きいだろう。また、丁字路で突き当たりがない道路を通行する場合で、突き当たりがある交差道路を左方から進行する車両に譲るときは、追突を防止するため、急ブレーキを避け、後続車に気を配ることが望ましいといえる。

*1:「丁」の横の線の道。

*2:
Japan road sign 405
Widehawk, Public domain, via Wikimedia Commons

なぜ年金保険だけ元を取ろうとするのか?

年金は払った保険料の分だけもらえるのか、元は取れるのかという話を聞くたびに、疑問に思っていた。なぜ、年金「保険」だけ元を取ろうとするのだろうか。多くの人は、年金以外にも、生命保険、自動車保険、火災保険など、様々な保険に加入しているだろうが、保険金で元を取れることを期待している人は誰もいないだろう。健康保険、労災保険、雇用保険などの強制加入の社会保険でも同様である。

このことを説明する理由の1つには、年金以外の保険は、保険金が給付される保険事故が死亡(生命保険)、交通事故(自動車保険)、火事(火災保険)、病気(健康保険)、労災(労災保険)、失業(雇用保険)などと、不幸な出来事であることが多いということがあるだろう。保険はそのような不幸なリスクに備えるためのものであり、それが実際には起きなくて保険料が払い損になったとしても、決して損をしたと思うべきではない。むしろ、不幸なことが起きなくてラッキーだったと思うべきなのだろう*1。

他方、年金保険の保険事故は長生きというめでたい出来事である。なので、年金保険で保険事故が起きず、保険金(年金)がもらえないということは、早死にして長生きできず、しかも、保険料の元が取れない*2ということである。まさに、泣きっ面にハチである。このようなことが起きてほしくないと思うのは当然なのかもしれない。もっとも、年金がカバーするリスクは、長生きそのものではなく、長生きによって収入や貯蓄がなくなることであるから、そのような考えは不合理であるという反論もあり得る。

もちろん、この他にも年金で元を取ろうとする理由はあるだろう。まず、多くの人が老後の生活に不安を抱いていることがある。また、寿命の増加や少子高齢化などで、長生きする人が増え(=保険事故のリスクが増大し)たことに伴い、年金財政の持続可能性を疑う人が増えているということもあるかもしれない*3。さらに、年金特有の性質や歴史的経緯などにより、世代によって非常に得をしたり、または損をしたりするように見えるということもあるだろう*4。

*1:もちろん、保険料がリスクに見合ったものになっているかの検討は必要である。

*2:ただし、遺族には遺族年金が給付される。

*3:保険である以上、リスクに応じた保険料にすればよい話のように思われる。

*4:これについても、基本的には保険で得をすることを期待すべきではない以上、得をしたように見える世代があったとしても、彼らは非常に幸運だったと言うほかない(想定以上に保険事故が発生した不幸な世代ともいえる)。また、年金制度が創設された頃に加入した人々は、支払った保険料こそは貰えた年金に比べて少なかったかもしれないが、多くの場合、親などの高齢者を私的に扶養していたことに留意する必要がある。

マスコミが嫌われる理由

テレビや新聞などがマスゴミなどと言われるようになって久しい。もっとも、多くの人は依然としてマスコミを信頼し、そのコンテンツを消費しているのも事実ではあるが。

なぜマスコミは嫌われるのだろうか。その原因には、誤報などにより間違った情報を伝えたり、偏った観点から情報を伝えたりするということもあるかもしれないが、そうでなくても、マスコミは本質的に嫌われる運命にあるのではないだろうか。

噂話・のぞき見・野次馬・ゴシップなどは、大いに好む人が多い一方で、あまりに露骨だと引かれることも確かである。マスコミは、それらを大っぴらに媒介することにより利益を得ているともいえる。これだと、嫌いな人が多いのも無理はないだろう。プライバシー保護の意識が高まっている昨今ではなおさらである。

もちろん、マスコミには、噂話やのぞき見の媒介ではなく、権力の監視や知る権利への奉仕といった崇高な使命がある。しかし、芸能関係や犯罪関係のニュースには、そういった使命に基づいているというよりは、噂話・のぞき見・野次馬の媒介者としての役割を果たしているといわざるを得ないものも少なくない。

また、人々に噂話やのぞき見の欲求があるのであれば、仮にそういった欲求に基づいたものであっても、知りたいという需要に応えることは、知る権利への奉仕につながる。さらに、権力者に対するものであれば、噂話やのぞき見だろうと、権力を監視しているともいえる。このように、マスコミの崇高な使命には、噂話・のぞき見・野次馬など、人間の低俗な趣味と不可分な部分があるのだろう。

そう考えると、マスコミは、嫌われ役に徹し続けるしかないのかもしれない。また、マスコミの報道を消費する我々も、どのような動機でそれを消費しているのかを内省した上で、マスコミを評価する必要があるだろう。

(追記)マスコミは、刑事司法制度のようなものかもしれない。犯罪をした人を裁判にかけ、刑罰を科す制度は、復讐心というあまり生産的とは言えない感情を満たすためのものかもしれないが*1、それがなければ私刑が蔓延するだろう。マスコミもそれと同様、よこしまな欲求を満たすものなのだろうが、巷での噂話やのぞき見、野次馬の抑制に貢献しているのかもしれない。

*1:もちろん、他にも犯罪の予防などの重要な機能がある。

自動運転や電気自動車に懐疑的な理由

自動運転や電気自動車は10年以上前から実現間近などと言われているような気がするが、これらの技術に疑問符をつけてみたい。

そもそも、車は、コスト面では公共交通や徒歩・(原付)自転車等に到底かなわず*1*2、所要時間も距離や道路状況によっては鉄道や自転車に劣る場合がある*3など、純粋な移動手段としては取り立てて魅力的とはいえない。それでも多くの人が車を利用しているのは、車に移動以外の価値も見出しているためと考えられる。

もし、それが運転すること自体やエンジンの音(?)などである場合*4、自動運転や電気自動車は、それらの価値を車からなくしてしまうだろう。運転やエンジン音などのために車に乗っている人がそれほど多いとは確かに考え難いが、スポーツカーや旧車を好む人や、ドライブを趣味とする人が相当数いるのも事実である。

また、環境負荷の軽減や交通安全等の観点から自動運転や電気自動車の普及を主張する人も多いが、それらの観点においても、電気自動車や自動運転が公共交通や自転車などに大きくまさっているわけでもなさそうである。アメリカが無重力でも使えるペンを莫大な資金を投じて開発した一方、ソ連は鉛筆を使ったというジョークを彷彿とさせる*5。

車は、よく言われるように、多くの場合はたった1人がせいぜい数キロメートルの距離を移動するために、十数平方メートルの公共の土地を占有しながら、1トン以上の鉄の塊を時速数十キロメートルで運動させるという本質的に非効率かつ危険な乗り物であり、コスト*6が高くついたり、環境問題や交通事故などを引き起こしたりするのは当然といえるだろう。このことは、電気自動車や自動運転車でも、多少は軽減されるかもしれないが、本質的に変わることはなさそうである。

*1:車に乗る頻度、車本体の価格、駐車場代などによってはタクシーより高くなることもある。

*2:なので、ガソリン代や車の税金が話題になるたびに疑問に思っていた。車はコストを気にして乗るようなものではないことは明らかだからである。また、ガソリン代や税金が車のコストに占める部分はそれほど大きいわけではない。

*3:国土交通省の資料によれば、約500mから5km弱の都市内移動において自転車が最も所要時間が短いという。また、同資料のグラフを見ると、6~7kmの距離で、鉄道の所要時間が自動車のそれを下回る。

*4:その他にも、プライベートな空間が確保されること、時刻表に縛られないこと、駅やバス停から遠い所でも行けること、ステータスシンボルとなることなどもあるだろう。これらは自動運転や電気自動車でも提供できる可能性がある。

*5:これは事実ではないらしいが。

*6:車の利用者が負担するもの以外に、インフラ整備費・交通事故・環境汚染・渋滞・騒音などの社会的なコスト(外部不経済)もある。これらのコストを車の利用者・所有者に負担させる(内部化)ために、車の利用・所有には様々な税金が課せられているが、それでも全てを負担させることはできていないのが実情である。このことは、車に対する補助金として作用し、社会的に望ましい水準以上に車が利用されることを促すことになる。

死後の世界について

死んだ後にどうなるのかについては、様々な説がある。完全に無となる、別の人に生まれ変わる、天国や地獄に行くなどなど。 この中でも、特に有力とされる完全な無説は除外し、生まれ変わり説と天国地獄説について比較検討したい。

生まれ変わり説は、人は死んだ後、今の自分とは別の人*1に生まれ変わるとするものである。様々なバリエーションがあるが、一般に、前世の記憶は引き継がれず、前世とは別の人の意識を体験するようになると言われている。非科学的な説明をすれば、霊魂が自分から別の人に移るとも言い換えられる。

一方、天国地獄説は、人は死んだら現世での行いなどに応じて天国か地獄に行くというものである。これも豊富なパターンがあるが、記憶が引き継がれ、今の自分とは同じ人が、天国や地獄に行くというのが一般的である。

私の個人的な考えとしては、生まれ変わり説の方がまだあり得そうだと考えている。その理由には、必要となる超自然的な前提が少ないことが挙げられる。

生まれ変わり説に必要なのは、自分以外の人にも(おそらく脳が生み出す)意識があり、様々な体験をしているということと、死後に、それらのどれかを体験できるということである。前者については、他人の主観なので完全に証明できるわけではないが、他人にも脳がある以上、おそらく正しいと考えられる。後者についても、次のように考えれば全くあり得ない話ではないように思える。

この世には、多くの人がいて、彼らにそれぞれ意識があり、それぞれ様々な体験をし、それぞれの視点からこの世界を眺めているが、私はその中の特定の意識しか体験していない。なぜ別の意識ではなくこの意識なのかは、おそらく何かの理由があるわけではなく、完全なたまたまであると思われる*2。理由がない以上、私が死んでこの意識を体験しなくなった後に、別の意識を体験するというのは全くあり得ないことではなさそうな感じがする。

他方で、天国地獄説は、様々な超自然的な要素を必要とする。天国や地獄というのは、この宇宙*3のどこにあるのか、死んだ人はどのように生き返り、天国や地獄まで移動するのか*4、記憶はどのように引き継がれるのか、天国か地獄かを誰*5がどのように決めるのか、などなど。このことを考えると、これらの要素の存在を完全に否定するわけではないが、天国地獄説はあり得なさそうという印象になる。

以上の議論には疑問点もある。

私がこの特定の意識を体験しているのには何の理由もなく、他の意識を体験することがあり得るのなら、それは死を契機にしか起こらず、生きている間には起こらないのだろうか? 意識を失うことは睡眠や全身麻酔など生きている間にもあるし、極論、他の意識に移ったりすることは、意識がある間にさえ起こりうるといえるだろう。しかし、これまで生きている間、他の意識に移るなどということが起きた記憶はない。もっとも、記憶が引き継がれないのだから、それは当然のことなのかもしれない*6。

それに関連して、生まれ変わって記憶が引き継がれないなら、それは今の自分と同じなのだろうかという疑問も出てくる。しかし、今の自分の記憶はないが、今の自分以外の視点からこの世界を眺めている、という様子を想像するのは容易であり、死後にそのようなことが起こりうるのなら、それが今の自分と同じであると言えなくても、死後のあり方として考えておく意義はありそうである。

時間との関係も問題となる。自分の死より後に生まれた人にしか生まれ変わることができないのなら、今生きている人の数以上の人が未来に生まれないと、生まれ変わりがない人が発生することになるかもしれない。もっとも、どの意識を体験するのかに理由はない以上、自分が死ぬ前や生まれる前の人に生まれ変わる可能性も十分にある。また、いずれはこの世の全時点にいるすべての人に生まれ変わり、それらの意識を体験することになるという壮大な仮説もあり得る*7。

最後に、これは特定の宗教を擁護し、他の宗教を批判するようなものではない。生まれ変わりを唱える宗教も、様々な超自然的な主張をしていることが多い。そもそも、超自然的な存在への信仰は、宗教の本質ともいえる部分でもある。

*1:意識があるその他の動物を含む。以下、人という場合は同じ。

*2:仮に理由があったとしても、それは私に限り通用する理由で、他の人に通用するものではない以上、普遍的な法則のようなものではないと考えられる。

*3:あるいは、別の宇宙や超自然的な世界。

*4:あるいは、霊魂の存在。

*5:神など。

*6:記憶が引き継がれない以上、他の意識に移っても、記憶により生まれてからずっとこの意識を体験していたと感じられるだろう。

*7:その場合も、すべての意識を体験し終わった後は、生まれ変わりがなくなるか、これまでに生まれ変わったことがある人と同じ人にまた生まれ変わることになるかもしれない。また、このブログを読んでいるあなたも、生まれ変わった私ということになる。

自転車が横断歩道を渡ろうとしているとき、車は止まらないといけないか?

歩行者が横断歩道*1を渡ろうとしているとき、車は、横断歩道の直前などで一時停止して、渡るのを妨げない義務があることは、よく知られている(あまり守られていないが…)。しかし、自転車が横断歩道を渡ろうとしている場合はどうだろうか。

道交法の条文を読んでみる。道交法第38条第1項には、次のように決められている。

車両等は、横断歩道又は自転車横断帯(以下この条において「横断歩道等」という。)に接近する場合には、当該横断歩道等を通過する際に当該横断歩道等によりその進路の前方を横断しようとする歩行者又は自転車(以下この条において「歩行者等」という。)がないことが明らかな場合を除き、当該横断歩道等の直前(道路標識等による停止線が設けられているときは、その停止線の直前。以下この項において同じ。)で停止することができるような速度で進行しなければならない。この場合において、横断歩道等によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者等があるときは、当該横断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない。

この条文をかみ砕いていく。まず、この条文では、横断歩道等は、「横断歩道又は自転車横断帯」と定義されている。また、歩行者等は、「歩行者又は自転車」と定義されている。そして、2文目をみると、「この場合〔横断歩道等に接近する場合〕において、横断歩道等によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者等があるときは、当該横断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない。」と書かれている。すなわち、「横断歩道又は自転車横断帯に接近する場合において、横断歩道又は自転車横断帯によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者又は自転車があるときは、当該横断歩道又は自転車横断帯の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない。」ということである。

「横断歩道によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする自転車があるとき」は、論理上は、「横断歩道又は自転車横断帯によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者又は自転車があるとき」に含まれると考えられる。そう考えると、自転車が横断歩道を渡ろうとしているときには、車は一時停止しないといけないということになる。

ところが、ウィキペディアの「横断歩道」というページの注釈5には、次のような記述がある。

自転車横断帯の無い横断歩道を横断しようとする自転車に対しては譲歩優先義務はない[注釈 4]。ただし小児用の車は歩行者扱いである。

また、同じページの注釈4には、次のように記述されている。

道路交通法ハンドブック(警察庁交通企画課)でも38条の保護対象は横断歩道を横断する歩行者と自転車横断帯を横断する自転車のみであると明記されており、平成20年道路交通法施行令改正後の判例においても同様の見解を取っている(例、東京高裁平成22年5月25日、福岡高裁平成30年1月18日、神戸地裁令和元年9月12日など多数)。

「道路交通法ハンドブック」や判例を自分で読んだわけではないが、これによると、道交法第38条第1項は、歩行者が横断歩道を渡ろうとしている場合と、自転車が自転車横断帯を渡ろうとしている場合についてだけ定めたものなので、そのどちらでもない「自転車が横断歩道を渡ろうとしている場合」には、車は一時停止する義務はないと、警察や裁判所は考えているらしい。それなら、明確にそうであると分かるように条文を変えるべきだと思うが…

しかし、止まる義務はなくても、止まれるような速度で走る義務はあるかもしれない。道交法第38条第1項の1文目には、

車両等は、横断歩道又は自転車横断帯(以下この条において「横断歩道等」という。)に接近する場合には、当該横断歩道等を通過する際に当該横断歩道等によりその進路の前方を横断しようとする歩行者又は自転車(以下この条において「歩行者等」という。)がないことが明らかな場合を除き、当該横断歩道等の直前(道路標識等による停止線が設けられているときは、その停止線の直前。以下この項において同じ。)で停止することができるような速度で進行しなければならない。

と書かれている。この条文が、警察や裁判所の解釈通り、

  • 車両等は、横断歩道に接近する場合には、当該横断歩道を通過する際に当該横断歩道によりその進路の前方を横断しようとする歩行者がないことが明らかな場合を除き、当該横断歩道の直前(〔略〕)で停止することができるような速度で進行しなければならない

ことと、

  • 車両等は、自転車横断帯に接近する場合には、当該自転車横断帯を通過する際に当該自転車横断帯によりその進路の前方を横断しようとする自転車がないことが明らかな場合を除き、当該自転車横断帯の直前(〔略〕)で停止することができるような速度で進行しなければならない

ことだけを定めたものであるとしても、自転車が横断歩道を渡ろうとしている(横断歩道の脇で自転車が待っている)ときに、横断歩道の直前などで停止できるような速度で走る義務があると読めるのではないだろうか。なぜなら、道交法第2条第3項にはこのように定められているからである。

この法律の規定の適用については、次に掲げる者は、歩行者とする。

  • 一 〔略〕

  • 二 次条の大型自動二輪車又は普通自動二輪車、二輪の原動機付自転車、二輪又は三輪の自転車その他車体の大きさ及び構造が他の歩行者の通行を妨げるおそれのないものとして内閣府令で定める基準に該当する車両(これらの車両で側車付きのもの及び他の車両を牽けん引しているものを除く。)を押して歩いている者

つまり、自転車を押して歩いている人は、道交法上、歩行者として扱われる。横断歩道の脇で自転車が待っている場合*2、その自転車から降り、押して横断する可能性もあるから、「当該横断歩道を通過する際に当該横断歩道によりその進路の前方を横断しようとする歩行者がないことが明らかな場合」とは言えなくなると思われる。これは屁理屈だろうか…?

以上から、自転車が横断歩道を渡ろうとしているとき、車は止まらなくてもいいが、止まれるような速度で走る義務があるかもしれないということになる*3。現実的な観点で考えると、車のドライバーは、たとえ法的な義務がなくとも、自転車が横断歩道を渡ろうとしているときは、交通事故防止のため止まってあげた方がいいだろう。また、自転車に乗る場合も、横断歩道を渡ろうとするときには、車には止まる法的な義務はないため、止まってくれることを期待しない*4で、車が来ないかしっかり確認することが、事故に遭わないために必要になるといえる。

*1:信号や自転車横断帯がない横断歩道を考える。

*2:なお、自転車から降りて待っている場合、歩行者が横断歩道を渡ろうとしているものとして扱われるから、第38条第1項の2文目が適用され、横断歩道に接近する車には一時停止の義務と横断を妨げない義務が発生する。このことには異論の余地はないと思われる。

*3:もっとも、信号のない交差点にある横断歩道を自転車が渡る場合は、道交法第36条が定める優先関係により、車に徐行義務や自転車の進行妨害しない義務があることや、逆に自転車にそれらの義務があることがある。一時停止標識がある場合も同様(道交法第43条)。また、交差点で、車が右折し、自転車が同じ道路を横断歩道を渡って直進する場合、道交法第37条により、車には自転車の進行妨害をしない義務がある。逆に、自転車が右折する場合は、二段階右折になるので、同じ義務があるかは不明。

*4:歩行者が渡ろうとするときですら、法的な義務があるにも関わらず、車が止まってくれることは多くない。